旅立ち…
2009.06.05
それは5月19日の早朝でした。
記録…
食事と飲水がストップされたのが4月22日。その3日後に肝機能の悪化により黄疸がでる。
首からの胃ろうを考えるも、血が止まらない(固まらない)ので手術自体が危険との判断により断念。→4月30日、右太ももの血管から栄養を入れ始める。
5月に入ってから、黄疸を軽くするために ビリルビンの吸着(この色素が体中にまわってしまい黄色になる)、血しょう交換をおこなう。根本解決にはならない、あくまで時間稼ぎとのこと。
5月14日午前0時30分頃、病院から呼び出しを受ける。
血圧の著しい低下、脈が弱いとのこと。血圧を上げる強い薬を使って、持ちこたえる。
血圧が下がって、透析が十分にできなくなる(上が50程度に突然、スコーンと下がる)。
基準の7倍もの昇圧薬を使っている。これ以上は増やせないとのこと。
5月初旬は時々意識がはっきりして、息子(旦那)の顔を目に焼き付けるかのごとく、長い時間じーっと見つめていた。
だけど、血圧が低下してからは目をあけるが焦点があわず、見えてない様子。声には反応する時が多い。
聴覚と皮膚感覚は残されていると感じた。複雑な意味は伝わらなくても、声の調子や体の触れかたで気持ちを伝えた。手を握ることで会話ができることを初めて知った。孫たちみんなに必ず手を握ってもらった。ほんの数回だが義母も握り返してくれた。
母の日には、さんざん悩んで、素材のいいタオルケットを買った。最期の時まで義母の体を覆っていた。そして長くできてなかった、顔そりをして化粧水と乳液を塗布した。義母は口を閉じて、少しよそいきの顔をしていた。
5月17日は日曜日で、偶然にも孫たちが義母の病室に勢ぞろいした。2歳から11歳まで4人。義母が妹のように可愛がっていたおばさんも来た。実の娘に嫁2人、義父もいたので大人4人に子供4人。個室とはいえ、迷惑にならないかと思うくらい賑やかだった。
義母は大好きな人たちに囲まれて、刺激が入って、回復の兆しが見えたように思った。唾をゴックンと飲んだり、口の中の異物(唇の皮)をプップッと出そうとしたりしていて、嬉しかった。
夕方仕事を終えて合流した旦那くんと、今日は大丈夫だろうと安心しながら、病院をあとにした。
その夜、5月18日午前3時30分頃、再度病院から呼び出し。
念のため、コールもつれて病院にむかう。
ハアッハアッと息遣いがあらく、肩で息をしている。
呼吸にも段階があり、下顎(かがく)呼吸というらしいことを、後で知った。
全力疾走をした後のようで、ひどく呼吸が困難な様子。
いつ逝ってもおかしくない様子。
それでもがんばってた。
家族が全員そろって、私たちの受け入れの準備ができるまで、がんばって待っててくれた。
怖かったのもあるだろう…。
「メソメソしててもおかーさんは喜ばないだろう。明るく話そう。」って旦那くんが言って、空気が変わった。義母の命が尽きる19日の早朝までの、丸1日、不思議な時間が流れた。
おかーさんの横で、たくさんの思い出話を聞かせてもらった。旦那くんの子供のころの話、おかーさんの結婚前の話…。冷たくなっていく義母の手を握りながら、みんなで時々笑ったりしてずーっと話していた。
コールも病院の駐車場で一緒だった。天気がよい日だったから、陽にあたって車内の温度が上がらないように、定期的に木陰に駐車スペースを変えた。きれいな夕陽の中、散歩した。
夕陽がきれいで、気持ちのいい風が吹いていたから、病室の窓を開けた。「おかーさんが見る、最後の太陽だね。」と旦那が言った。実際には、白目も黄疸でゼリー状に黄色く濁り、視覚はとっくに無かったけど、感じてくれればいいと思った。
病室に簡易ベッドを置いてもらったり、車内で仮眠をとったりして2晩目をむかえた。
よりいっそう苦しそうに呼吸をする義母に、みんながたくさんの声をかけた。「がんばれ」とも言えなくなっていた。「もういいよ。がんばんなくって、もういいよ。」って思った。ただ、ありがとうとだけは伝えたかった。でも他の家族がいるとつい遠慮してしまう。嫁だし…
数日前に義母と2人だけの時に、恥ずかしかったけどちゃんと伝えなきゃと思って、がんばって感謝の気持ちを伝えていてよかったと思った。(私は上手く心情を口にできないタイプ)
ほとんど反応を示さなくなっていた義母が、手を握り返してくれて、何も映さないはずの瞳で優しく見つめてくれたように感じて、驚いた。
そうこうしている間に、深夜ひともんちゃくが起きて(これは旦那くんに直接聞いてね)
みんなが落ち着いたのを見計らったようなタイミングで、最期の時がきた。
5月19日の午前4時12分。
義母の実子3人とその嫁2人と、自分の旦那さんに看取られて旅立っていった。
看護師さんに義母の体を拭いてもらってる間、家族でデイルームに座った。朝陽の中、みんな泣きはらした顔でそれでも不思議な充足感があった。
20日は大安だったから、通夜が1日延びて、義母があんなに帰りたがっていた自宅で19日と20日の両日ゆっくりすることができた。
苦しかったはずなのに、穏やかできれいな顔をしていた。黄疸も消えていた。
5月の、頬をくすぐるような、優しくて気持ちのいい風が吹き抜けた。おかーさんの風だと感じた。
5月21日通夜、22日告別式と忙しくすごし、その後ひどい風邪をひいてしまった。
やっと体も復調してきた。
私も旦那くんも、あんなに頼りにしてたおかーさんの いない世界に歩きださなくてはならない。
私たちは、まだまだこれから。
たくさんの試練も乗り越えなくてはならないだろう。
辛いことも、楽しいこともたくさん経験しよう。
おかーさんみたいに、強くて優しい人にならなきゃ。
あの世で会えないと困るからね。
記録…
食事と飲水がストップされたのが4月22日。その3日後に肝機能の悪化により黄疸がでる。
首からの胃ろうを考えるも、血が止まらない(固まらない)ので手術自体が危険との判断により断念。→4月30日、右太ももの血管から栄養を入れ始める。
5月に入ってから、黄疸を軽くするために ビリルビンの吸着(この色素が体中にまわってしまい黄色になる)、血しょう交換をおこなう。根本解決にはならない、あくまで時間稼ぎとのこと。
5月14日午前0時30分頃、病院から呼び出しを受ける。
血圧の著しい低下、脈が弱いとのこと。血圧を上げる強い薬を使って、持ちこたえる。
血圧が下がって、透析が十分にできなくなる(上が50程度に突然、スコーンと下がる)。
基準の7倍もの昇圧薬を使っている。これ以上は増やせないとのこと。
5月初旬は時々意識がはっきりして、息子(旦那)の顔を目に焼き付けるかのごとく、長い時間じーっと見つめていた。
だけど、血圧が低下してからは目をあけるが焦点があわず、見えてない様子。声には反応する時が多い。
聴覚と皮膚感覚は残されていると感じた。複雑な意味は伝わらなくても、声の調子や体の触れかたで気持ちを伝えた。手を握ることで会話ができることを初めて知った。孫たちみんなに必ず手を握ってもらった。ほんの数回だが義母も握り返してくれた。
母の日には、さんざん悩んで、素材のいいタオルケットを買った。最期の時まで義母の体を覆っていた。そして長くできてなかった、顔そりをして化粧水と乳液を塗布した。義母は口を閉じて、少しよそいきの顔をしていた。
5月17日は日曜日で、偶然にも孫たちが義母の病室に勢ぞろいした。2歳から11歳まで4人。義母が妹のように可愛がっていたおばさんも来た。実の娘に嫁2人、義父もいたので大人4人に子供4人。個室とはいえ、迷惑にならないかと思うくらい賑やかだった。
義母は大好きな人たちに囲まれて、刺激が入って、回復の兆しが見えたように思った。唾をゴックンと飲んだり、口の中の異物(唇の皮)をプップッと出そうとしたりしていて、嬉しかった。
夕方仕事を終えて合流した旦那くんと、今日は大丈夫だろうと安心しながら、病院をあとにした。
その夜、5月18日午前3時30分頃、再度病院から呼び出し。
念のため、コールもつれて病院にむかう。
ハアッハアッと息遣いがあらく、肩で息をしている。
呼吸にも段階があり、下顎(かがく)呼吸というらしいことを、後で知った。
全力疾走をした後のようで、ひどく呼吸が困難な様子。
いつ逝ってもおかしくない様子。
それでもがんばってた。
家族が全員そろって、私たちの受け入れの準備ができるまで、がんばって待っててくれた。
怖かったのもあるだろう…。
「メソメソしててもおかーさんは喜ばないだろう。明るく話そう。」って旦那くんが言って、空気が変わった。義母の命が尽きる19日の早朝までの、丸1日、不思議な時間が流れた。
おかーさんの横で、たくさんの思い出話を聞かせてもらった。旦那くんの子供のころの話、おかーさんの結婚前の話…。冷たくなっていく義母の手を握りながら、みんなで時々笑ったりしてずーっと話していた。
コールも病院の駐車場で一緒だった。天気がよい日だったから、陽にあたって車内の温度が上がらないように、定期的に木陰に駐車スペースを変えた。きれいな夕陽の中、散歩した。
夕陽がきれいで、気持ちのいい風が吹いていたから、病室の窓を開けた。「おかーさんが見る、最後の太陽だね。」と旦那が言った。実際には、白目も黄疸でゼリー状に黄色く濁り、視覚はとっくに無かったけど、感じてくれればいいと思った。
病室に簡易ベッドを置いてもらったり、車内で仮眠をとったりして2晩目をむかえた。
よりいっそう苦しそうに呼吸をする義母に、みんながたくさんの声をかけた。「がんばれ」とも言えなくなっていた。「もういいよ。がんばんなくって、もういいよ。」って思った。ただ、ありがとうとだけは伝えたかった。でも他の家族がいるとつい遠慮してしまう。嫁だし…
数日前に義母と2人だけの時に、恥ずかしかったけどちゃんと伝えなきゃと思って、がんばって感謝の気持ちを伝えていてよかったと思った。(私は上手く心情を口にできないタイプ)
ほとんど反応を示さなくなっていた義母が、手を握り返してくれて、何も映さないはずの瞳で優しく見つめてくれたように感じて、驚いた。
そうこうしている間に、深夜ひともんちゃくが起きて(これは旦那くんに直接聞いてね)
みんなが落ち着いたのを見計らったようなタイミングで、最期の時がきた。
5月19日の午前4時12分。
義母の実子3人とその嫁2人と、自分の旦那さんに看取られて旅立っていった。
看護師さんに義母の体を拭いてもらってる間、家族でデイルームに座った。朝陽の中、みんな泣きはらした顔でそれでも不思議な充足感があった。
20日は大安だったから、通夜が1日延びて、義母があんなに帰りたがっていた自宅で19日と20日の両日ゆっくりすることができた。
苦しかったはずなのに、穏やかできれいな顔をしていた。黄疸も消えていた。
5月の、頬をくすぐるような、優しくて気持ちのいい風が吹き抜けた。おかーさんの風だと感じた。
5月21日通夜、22日告別式と忙しくすごし、その後ひどい風邪をひいてしまった。
やっと体も復調してきた。
私も旦那くんも、あんなに頼りにしてたおかーさんの いない世界に歩きださなくてはならない。
私たちは、まだまだこれから。
たくさんの試練も乗り越えなくてはならないだろう。
辛いことも、楽しいこともたくさん経験しよう。
おかーさんみたいに、強くて優しい人にならなきゃ。
あの世で会えないと困るからね。
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